「仰向けで背負う」
2025
ミクスト・メディア
サイズ可変
2025
ミクスト・メディア
サイズ可変
Carried and Carrying
Mixed media
Dimensions variable
Mixed media
Dimensions variable
Photo: Shunta Inaguchi
壁にかけられているドローイングは、抗議運動に参加する方や機動隊の方から伺った言葉をもとに、11年間の出来事を描きとめたものである。右に置かれた装置は、これに乗ることで、抗議の時に機動隊が人を持ち上げ、運ぶ際の抗議者の身体の型をその状況に近い姿勢を取ることができる装置。
報道ではしばしば「排除する」という言葉が用いられる。しかし現場に同行したり、お話を伺う中で見えてきたのは、単に「排除される人」ではなく、尊厳を守るために身体を使って抗う人の姿である。そう考えると、決して排除されているわけではないのかもしれない。むしろ仰向けの体によって、機動隊そのものを背負っているかのように見えてくる。また、この問題を背負うのは私たち自身であるのかもしれない。
The drawings displayed on the wall record events over eleven years, based on words collected from participants in the protest movement and members of the riot police. A device that allows a person to take on a posture resembling the shape of a protester’s body as they are lifted and carried away by riot police after a demonstration.
In news reports, the term “removal” is often used. However, from accompanying people on-site and listening to their accounts, it becomes clear that these individuals are not
merely “people being removed,” but people who use their bodies to resist in order to preserve their dignity. Viewed in this way, they may not be removed at all. Rather, lying on
their backs, they seem to bear the weight of the riot police themselves. Perhaps it is we who bear this issue as well.
merely “people being removed,” but people who use their bodies to resist in order to preserve their dignity. Viewed in this way, they may not be removed at all. Rather, lying on
their backs, they seem to bear the weight of the riot police themselves. Perhaps it is we who bear this issue as well.
テキスト抜粋|「ぽよぽよ新聞 2025年号外」より
この場所で起こっている出来事は、抗議者のからだの機微が機動隊員のからだを作っている。座り込んでいるとき強制的に引き出される(抗議者が強制的に排除される)瞬間、抗議をする者の体は浮遊し、自律が明確になる。あの瞬間は社会ではない。社会ではなく、もっとも尊い個人が見える。日常の中に浸透した特権、座り込んだ結果、座り込みをする権利があの排除の姿勢であらわになる。もっとも尊く、もっともおごそかで、犯してはならないこと。気高く、威厳があることが、あの排除される瞬間に現れ、それは同時に構造が見える瞬間でもある。(抗議者の尊厳と身体性が最大限に露呈する場であると同時に、施行側の権力の個別化—すなわち機動隊員の身体を介した権力行使も経験される)。
アルミニウムの装置が機動隊に排除される瞬間を型どっているのは、私たちの身体の尊厳が一番見える瞬間が、奪われる瞬間にたち現れるから、その動作上にある機微を記述することが、辺野古の新基地建設の記述をすることであると考えたからだ。機動隊から適度に、また執拗に身体を触れられ、そして私は重力を感じる、その瞬間に機動隊のなかにあるひとりの人間としての個も感じる。私の背中や腕や足首に、機動隊の軍手が重く触れる。その圧力は決して荒っぽいものではなく、けれどしっかりと執拗に繰り返し押し付けられる。重力がずしりと身体にのしかかり、自分自身の体重と機動隊員の力が微妙に絡み合う感覚が伝わってくる。仰向けになった私の身体を通じて伝わり、抗議の身体と権力の身体が、一瞬のうちに複雑な振付のように絡み合う。その瞬間私はただの抗議者ではなく、力と意思の交錯点に浮遊されている個人に立ち返る。体温が触れるたびに目の前の制服の奥に、無表情に見える顔の裏に、彼もまた呼吸をしていて、皮膚に覆われた身体を持ち、意識を持つ存在であることを認めざるをえない。それは生理的な嫌悪を伴いながら、見えない歴史の重みを私の身体に沈めてくる。私はなお生きながら、規律という理念をこの身に受肉させられている。 だからこそ、あの閾(いき)の状態を、型取り、記録しなければならない。振り付けられず、誰の心にも倦まれ、遠ざけられ、また忘れ去られることをなお拒絶する。 尊厳が奪われるその瞬間にこそ、尊厳が最もはっきりと姿を現す。尊厳が奪われるその瞬間にこそ、尊厳はもっとも鮮明に姿を現す。(大事なことなので2回言った。) 生活の中で尊厳があえてあらわになることは危険なことであり、それは声でもなく、意志の表明でもない。ただ身体が強制的に持ち上げられ、地面から離れ、自らの重力を失うその刹那に、身体は“私”という輪郭を取り戻す。屈服でも抵抗でもなく、意志が肉体の外へ押し出されるような沈黙のなかで、人間としての「不可侵」がもっとも強く可視化されるのだ。尊厳とは与えられるものではない。制度によって承認されるものでもない。むしろ、それが奪われようとする暴力の直中で、なお「奪われ得ないもの」として、ぎりぎりの形で現前する。それは、押さえつける腕と、抗うことをやめたようにみえる身体とのあいだに漂う。奪う手と奪われる身体、その二つの力の交差点で、人間のかたちがいっとき、異様な明度で浮かび上がる。 所有する者も個体もいて、はっきり言って誰かの個体である第三者によって作られた象徴秩序の中に自分のからだが登録されることは、悦ばしいことではないかもしれないし、両儀的な経験を反復する。身体こそが最後の言葉であり、最後の抵抗なのだ。言葉が奪われても、身体はなお、世界に向かって語り続けている。
「開館30周年記念展 日常のコレオ」関連プログラム大和楓 パフォーマンス&ワークショップ《仰向けで背負う》2025年10月25日(土)、26日(日)でWS参加者の皆さまに配られました。